昔、尾崎豊が嫌いだった。

澤木 信宏 さん 三菱ターボチャージャアンドエンジンアメリカ

私は1982〜1985年、ある公立の中学に通っていた。その頃の日本は校内暴力が全盛期で、1980年に3年B組金八先生の第2シリーズ (腐ったミカンの方程式のシリーズ)、1984年にスクールウオーズが放送されていた時代。私の通っていた中学はまさにテレビドラマに出てくるようなすさんだ学校そのもので、授業はほとんど成立せず、卒業生がバイクで校庭を走ったり、近隣の中学が喧嘩で乗り込んできたり、毎朝、荒れた学校に行くのが怖くてしかたなかった。

尾崎豊のデビューは1983年。当時のいわゆる「不良」のハートに響き、彼らが好んで聞いていた。私は尾崎豊が嫌いだった。その日の気分で気ままに先生や弱者に暴力を振るう、欲しいものがあると「かつあげ」(恐喝行為の隠語)をして金を巻き上げる、いつもシ〇ナーを吸ってラ〇ってる、本当に悪い連中だった (もっとえげつない事もあるけど、ここでは書けません)。不良を美化して歌詞に変えてメロディーに乗せ、不良連中が好き好んで聴く楽曲を歌う、尾崎豊が嫌いだった。

 

社会人になったのは1992年。日本はバブル崩壊後だったが、まだ若干余韻が残っており、営業に配属された私には、お客様と2次会、3次会に行く機会も頻繁にあった。年齢も若く経験もないので、気の利いた話しや仕事の話しもできる訳もなく、ただ盛り上げ役として「一気飲み」を繰り返していた。いつだったか、その日もベロベロになってトイレ休憩した。Toilet Bowl から顔をあげると、トイレの壁に尾崎豊の「I Love You」の手書きの歌詞のポスター (今となっては本人が書いたものかどうかは分からないが)が貼ってある。酔いでグルグル回っている頭の中で、I Love Youの歌詞を読んだ。なんかいい歌詞だなあ。涙が出た。俺はこんなところで何やっているんだ。こみあげてきて、またToilet Bowlに顔を突っ込んだ。

2016 年にシカゴに赴任した。出張で車を使う機会が増えた為、眠気防止の為に音楽をかけるようにした。昔ならカセットテープだろうが、今は携帯かUSBで大量の音楽を車中で聴くことができる。私の場合は好きな音楽を自宅で夜ダウンロードしてUSBメモリーに入れている。今時はストリーミングでダウンロードすらもしないだろうけど、昔、せっせと小遣いを貯めてCDを探して買っていた身からすれば、1ドルまたは数百円で好きな曲を大した苦労もせず購入できるのなんて夢のようで、ついつい大人買いしてしまう。ある晩ふと、尾崎豊の事を思い出した。購入前にYouTubeでいくつかの曲を聴くと、何だかまた中学生の頃とは違う感情が湧きあがってきた。ああ、俺は、学生の頃嫌っていた薄汚い大人になっているのではないか?昔抱いていた理想はどこに行ってしまったのか?涙がこぼれおち、また何杯目かのウイスキーを自分で注いで、夜は更けていく. . . 。

車で聴く時にシャッフル再生していると、1 か月に1 度くらい思い出したように尾崎豊の曲がかかる。その度毎に運転中ながら、「金か夢かわからない暮らし」(“シェリー”)に悲しくなりながらも、「正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで」(“僕が僕であるために”)頑張っていこうと励まされたりする。

最近はコロナウイルスの影響でカラオケもないだろうが、オジサンが尾崎豊を歌うと、若い人からは、かなりウザいと思われるらしい。私の娘は小学2年生の時、たまたまラジオから流れた「盗んだバイクで走り出す」(“15の夜”)を聞いて、バイク盗んじゃダメでしょ、と至極もっともな発言をした (我が子ながらいい子だ)。時代は変わって、自分の感覚が世間からズレてしまっているかもしれないけど、でもいいのだ。オジサンは、尾崎豊の歌を聴いたり、歌ったりしながら、理想とか、夢とか、現実とかをたまに考え直し、落ち込んで、そして少し人間性を回復するのだ。
ああ、「どこに行けば 俺はたどりつけるだろう」(“シェリー”)???