本屋の娘

山本 真理さん バーンズ&ソーンバーグ法律事務所

やれやれ、やっとチャイムが鳴り金曜日7限目の数学の授業が終わった。汗かきで黒縁眼鏡が鼻からいつもずれ落ちる数学の先生は、難解な積分方程式をよくもこんなに美しく黒板にすらすら書けるもんだ。積分のロジックは文系の私にはチンプンカンプン全くわからない。英語、国語、世界史の授業だと頭にすんなり入るのだが。

漫画をびっしり描いた数学のノートを閉じ、教室の前の時計を見ると4:30pm。放課後の英語部活はビートルズの曲をかけて聞き取りの練習をすることになっていて今日はYESTERDAYの曲をかけるんだと英語部長が張り切っていた。ポール・マッカートニー調の英語で、世界の人とすらすら話せるようになったらさぞかっこいいだろうな。いつかアメリカに留学してみたい。だから高校一年から英語部に入ったというのは親に対する外向き理由だった。

校舎から5分ほど離れた長屋のような建物には、文芸部、新聞部、郷土歴史研究部、囲碁将棋部、英語部の順番で部室が並んでいるが、校庭のグランドがよく見える位置にあるのが英語部室。片思いの同級生のサッカーユニフォーム姿が部室の窓からちらちら見える。英語の上達というよりも、実はそちらの方がお目当てで英語部に入った私。

 

(明治時代から続いていた実家の書店)

しかし、今日だけは部活を休まなければならない。実家の本屋を手伝う直帰の日である。金曜日の夕方5時から閉店までの2時間、来年受験を控えている高校生の私が何故店番なのかとぶつぶつ言いながら、店のレジ台に制服のまま座って一息。でも今日は別冊マーガレットの発刊日。偉大なる池田理代子先生の「ベルサイユのばら」の最新ストーリーをこの町の誰よりも先に読める特権付きであることも間違いない。エースをねらえ、巨人の星、ドカベンを町中の誰よりも早く読んできたのはこの私だ。

片思いのサッカー部の彼も、練習後駅に向かって友達と一緒に本屋の前を歩く姿をレジ台から待ち焦がれ、来年の今頃は東京で再会することを想像してドキドキしながら、結局漫画に没頭して今日も見逃してしまった。

漫画コーナーの横には白書、専門書、官報だのいろいろ難しい本が並んでいる。県の教科書認定書店だった時代もあり、夏休みは番頭さんのスクーターの後ろに乗って県庁や市役所を回る配達の手伝いもさせられたが、「いつも配達ご苦労様でした」と言われると、本や刊行物を配達することはやりがいある仕事だとつくづく思ったものだ。

ベルばらの花形である男装の麗人オスカルの片思いに熱くなって「そうだ、来年1 月は共通一次試験。マークシート方式とかいう四択の新しい試験が始まるらしい。受験勉強をしなきゃ!」という一瞬のプレッシャーも少年ジャンプの表紙をめくったとたんに吹っ飛んでしまう。暇な金曜日の夜の店で本を買ったお客は5 名様。2時間のシフトで2千円の店の売り上げ也とは極めて零細商売だが、これが私の将来のアメリカ留学の資金にわずかなりとも貢献したと思えば、レジ番もまんざら悪くないかとつぶやき7 時に無事閉店。レジの処理をして店の鍵をかけた。

明治時代からあった実家の家業の書店が閉店して久しい。書籍とレコードをネットで売っていたアマゾンが今では時価総額世界トップランキングの巨大企業になる時代である。シカゴ地区の日本語教育、人材育成活動団体へのJCCC基金の交付活動にあたり「海外に行きたくても行けない、先生にも友達にも簡単に会えない」ウィズコロナ時代を逞しく生きていく次世代の若者に対する思いが、アメリカ留学を夢見た自分の高校時代の思いに重なった。