シカゴは何回目?
米国日本生命の守谷と申します。コロナ禍でラジオ体操と散歩が日課になってしまい、まるで海外生活をしているとは思えない、健康的な日々を過ごしております。単身赴任生活をしていると、なぜ私はシカゴにいるのだろうと振り返ることが多々ありますが、いつも、次の言葉で私の振り返りは終わります。「海外生活が好きだから。」
私の記念すべき、1回目の海外生活は、大学1年の冬、アメリカ合衆国のオクラホマでした。日本人の大半はオクラホマがどこにあるか知らないでしょう。大阪伊丹空港から、LA、メンフィス、オクラホマの経路で、とんでもない長旅でした。帰りも同じ経路のはずが、フライトがキャンセルとなり、メンフィスではなく、シカゴ経由となりましたが、大雪で10時間近く足止めとなってしまいました。これが、私の初シカゴでした。
5週間の短期留学ですが、オクラホマ訛りの英語が本当に苦手でした。オクラホマで学んで今でも覚えていることはただ一つ。オクラホマスーナーズ (OklahomaSooners)の由来でした。トム・クルーズ主演の映画でその由来となる話が描かれており、その説明をするときは、私が得意気になる数少ない瞬間です。気になる方は、ご自身でお調べ下さい。
オクラホマ訛りの英語が分からず自信喪失した私は、捲土重来、再び、海外に行く機会を得ました。大学3年生の夏、カナダのバンクーバーでした。約8ケ月の滞在中、大半の友人は香港系カナダ人でした。香港が中国に返還される前で、香港出身者が学生寮に多数在籍していました。そのため、毎週土曜日は、必ずチャイナタウンに行き、飲茶でした。毎回10名前後参加するのですが、日本人は私を入れて2名がレギュラー。英語で話してくれると助かるのですが、彼らは途中から広東語で話し出します。この時に発症した広東語アレルギーは今も治っていません。
社会人最初の海外生活は、28歳の春、英国のロンドンでした。某都銀さんに1 年間トレーニーとして派遣され、皆様に本当に可愛がってもらいました。他社から来たお客さんでしたので、お仕事では使い物にならず、夜のお店のセッティングや、休日の集まりの段取り等で貢献?しました。本筋ではないですが、ロンドンでの一番の思い出は、スペインのマドリッドからロンドンに戻る際に差し出された機内食です。フライトが遅れて夜遅くになったこともあり、本当に機内食を楽しみにしていました。私の席は機内のほぼ中央です。前と後ろから、フライトアテンダントが、「Beef or Chicken?」と聞いて私の座席に近づいてきます。隣の友人は、「Beef!」と叫んで、さっそく食べようとしていました。なぜか私への声掛けがなく、しばらくしてから、「Sorry」。マジックでVと書かれた機内食が与えら
れました。文句を言う元気も英語力もなく、3時間近く、本当に不機嫌な状態が続いたことを今でも鮮明に覚えています。Vが何か気になる方は、想像して下さい。
次の海外生活は、42歳の春、中国の香港でした。日本生命の出資先に3年間出向しました。この時、出向先の外国人は、私と米国人社長の2名のみ。私との仕事は英語でしたが、食事や雑談になると、皆、広東語で話を始めます。完全なデジャブ状態でした。この時、何十年振りの疎外感を強烈に感じたため、広東語を学びはじめました。しかし、1ケ月で挫折し、普通語に切り替えました。広東語は本当に難易度が高い言語で、「カラオケが下手な人には向かない言語だ」と友人からカラオケ店で慰められました。また、香港滞在中には、欧米で、「雨傘運動、雨傘革命」と呼ばれる事態に遭遇しました。学生が道路を占拠し、段ボールで拠点を作り、市民が生活物資を差し入れする光景が日常風景でした。一方、ビルの中のビジネスは何も滞りがなかった状況でしたから、世代間の分断を肌で感じたもの
です。今では、随分、事情が違っているようですが。
さて、ようやく、シカゴについて書こうかと思いましたが、まだ振り返るには十分な時間が経過していないためか、ネタが思いあたりません。コロナ禍が早く終焉し、いつか、数多くのシカゴエピソードを話すことができればと心より祈念している今日この頃です。