クラシック音楽を楽しむ!
シカゴには数多くの文化遺産が存在し、我々の生活を豊かにしてくれている。その対象は音楽、美術、スポーツ、歴史、自然、建築、教育、職場、多人種交流があり、食環境などである。我々の日常生活にとって、いろいろな選択肢があり、寒い冬でもインフラ整備が向上したおかげで、我々の生活環境は滞ることはほとんどない。1980年代までは、道にまく塩が不足して、道路が氷でよく滑り、危険な状況に直面したものである。ちなみに、この塩はミシシッピー川をバージによって1年を通じて運ばれてきており、時々起こる渇水状態の夏の際は、冬の塩の貯蓄が課題になる。このようなシカゴには世界に誇るいろいろな楽しみが1年中を通じて存在する。今回は、数ある文化の中のひとつ、クラシック音楽を課題としてとりあげてみる。
シカゴには、世界に誇れるシカゴ交響楽団、リリックオペラ、それにラビニア音楽祭、グラントパーク音楽祭があり、ほぼ1年を通じてクラシック音楽を楽しむことができる。その楽しみ方で、時々、日本からいらした方々から質問されることがある。私が、まずお勧めするのは、自分にとって馴染みの深い曲を選び、聴き比べてみることをお勧めしている。例えば、ベートーベンの交響曲第9「コラーレ」とか第5「運命」は指揮者や楽団によって、スピード、強弱などが全然違っており、どのスタイルが自分の感性にとって馴染めるのかを聴き比べてみると良い。
1. 感性を磨く
辞書で感性を検索すると「物事を深く感じ取る働き。外界からの刺激を受け止める感覚的能力。類似語として感受性」とある。感性は生まれながらにして個人に与えられたダイヤモンドの原石のようなもので、一生かけて研磨されていくものではないかと思う。私にとって音楽への出会いは奥飛騨での生活にある。
戦前生まれの私は3歳の時、戦時疎開で母親の里である平湯温泉に母、姉と共に移り住んだ。この谷間の村里は、乗鞍岳、穂高連峰、焼岳に囲まれた谷間にあり、川のせせらぎ、木々のざわめき、野生動物の鳴き声、それに温泉からの湯けむり、冬のしんしんと降り注ぐ大粒の雪、様々な山菜、栗、すもも、あけび、ぐみ、野生ぶどう、イワナ、鯉、サワガニ、鹿、イノシシ、熊などの肉類が食卓を賑わしていた。ここでの生活は、私に静寂感(ピアニッシモの世界)、スケールの大きさなどを肌で感じ取らせてくれると同時に感動、感激への基本的要因を体験させてくれた。
終戦後、疎開から大阪に戻ったら、市内は焼け野原。この時の衝撃がその後、ニューヨークで私が物流業界に入る動機となったのである。
小学校3年生からピアノのレッスンを始め、5年生の時、学芸会の合唱で式をしたら、周りからうまいと褒められ、その後、中学、高校、大学で、すべての合唱で指揮を執った。音楽に対する興味は深まっていき、当時、「楽音」と「労音」というふたつの音楽主催団体のプログラムのうち、クラシック関係は、ほぼ小遣いをはたいて通っていた。ちなみに冷戦下の影響が強く、「楽音」は英米系、「労音」はソ連系が後押ししていた。
そのような時期に、私にとって大きな影響を与えるグループが1957年に来日した。私の高校生1年の年である。米国が世界に誇るウェストミンスター合唱団で、このグループは日本ではあまり知られていなかったが、米国が最初にソ連に送った文化使節団でもあった。創設者であり合唱団の指揮者であったウイリアムソン博士は独特の発声法で少人数でありながらも、会場の隅々まで届くハーモニーは、感動・感激そのものであった。
この合唱団は、ウェストミンスター合唱大学という音楽大学の中核をなし、パイプオルガンを校舎内に23台も有しており、教会音楽の世界的な教育機関となっていた。その昔、ほとんどの作曲家は教会の音楽監督を務めており、時には指揮者、オルガニスト、ソロリストとして活躍してきた。大学は、ニュージャージー州のプリンストンにあり、音楽の大市場であったニューヨーク、フィラデルフィアの中間に位置していた。プリンストンにはプリンストン大学、プリンストン高等研究所、プリンストン神学校、ウェストミンスター合唱大学があり、“真、善、美”が備わった学研都市で、町自体は緑の深い落ち着いた環境で、大学キャンパスとしては米国のトップクラスに入ると言われている。
私にとって特に大きな影響を与えてくれたのが、ウイリアムソン博士が主催して行われたセミナーに参加できたことであった。発声法、呼吸などを身体全体を使って表現されており、特に博士の体に手を置いてその使い方を学ばせてくれた。このセミナーを終えた後、ウェストミンスター合唱大学に来るように、博士から招待され、私の人生の方向付けが形成されることになった。留学の条件は、まず米国で2年間リベラルアーツの大学で、英語と音楽の基礎を勉強してくることを要請された。当時、外貨持ち出しが厳しく制限されており、留学生はフルブライトを含んで、4,000人だけが海外に出られていた。それでも、多くの方々からのサポートを受け、1961年夏、南米向け移民船アルゼンチナ丸で、神戸、横浜経由でロスアンゼルスに到着、その後、ユニオンパシフィック鉄道でセントルイスに移動。イリノイ河にあるグリーンビル大学に入学。2年間を過ごし、1963年にウェストミンスター合唱大学に3年生として編入。1965年に卒業。この音楽大学での経験は、私の感性を世界的レベルにまで上げてくれるチャンスを与えてくれた。
当時のニューヨークは、第2次世界大戦で破壊されることもなかった為、世界の金融業界の中心であらゆる活動の中心地であった。ヨーロッパは、まだ、戦後からの復興の最中であったので、すべての文化活動のトップレベルは、ニューヨークに集まってきていた。
その中で、ウェストミンスター合唱団は、交響合唱曲のパートナーとして色々な楽団と共演し、不動の地位を占めていた。私は、このような状況の中で、日本人最初の合唱団員の正団員として選ばれた。正団員は40人で、500人の中からオーディションを受けて、難関を突破しなければならなかった。
出演できた主なプログラムは、ベートーベン第9交響曲「合唱」をバーンスタイン指揮のニューヨーク交響楽団、並びにカラヤン指揮のベルリン交響楽団、ベルディの「レクイエム」をユージン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア交響楽団、マーラーの「第2交響曲」をレオポルド・ストコフスキー指揮の、アメリカン交響楽団、ヘルマン・シェルヘン指揮のニューヨーク交響楽団。独唱者はメトロポリタン歌劇場からのトップシンガー達であった。
各々の楽団は、特徴があり、ダイナミックなニューヨーク、重厚なベルリン、華麗な弦楽器と管楽器のフィラデルフィア、枯れた静寂性を持ったアメリカンなどである。特に、最も感銘を受けたのは、当時バッハの帝王と呼ばれていたドイツのヘルマン・シェルヘンが指揮した、ジョン・F・ケネディ暗殺1周年記念公演のモーツアルト「レクイエム」に出会った時である。劇場は1962年に完成されたリンカーンセンターにあるアベリーフィッシャーホールで、音響効果はいまだ未完成であったが、皆の思いは深い悲しみの最たるもの
で、ピアニッシモの極限にあった。特に最後の音は、指揮棒の最先端に凝集され、合唱団員、楽団員、それに聴衆が一体となって深い悲しみを分かちあった荘厳な瞬間であった。おそらく指揮者はドイツの敗戦を身をもって体験し、その深い悲しみを心に秘めていたので、あのような感性で我々に示してくれたのではないかと思った。
この時の体験がJCCC基金として1995年の阪神大震災の追悼、並びにファンドレイジング公演に、モーツアルトの「レクイエム」を選んだのである。この頃のニューヨークでのクラシック音楽界には、日本人は誰もいなかった。私のカーネギーホール、リンカーンセンターでの出演回数は1963年から1965年の間では60回はあったので、パイオニアの感がある。
2. 名人芸とは
20代の前半に音楽を通じて名人芸に達している多くの人々と会えるようになり、自分なりに目や耳が肥えてきているように思えるようになった。最初に経験したのは、1969年に日本に帰国した時、剣道と居合道では日本のトップに近い人であった父親の演武を見た時、その技は名人芸に達していることに気が付いた。名人芸とは、力で強さを見せるのではなく、人の目が自然に凝集されるという特性である。
同じような体験は、京都の芸術大学教授で、和紙を使って作品作りをされていた方が、インディアナ大学によく行き来されていた折、シカゴにみえるとよくお会いしていた。その先生の作品を、シカゴで購入される方がいらっしゃり、実際に作品を見る機会があった。その後、数年たってお会いする機会があり、カタログや作品を再見できたが、その作風が一目で名人芸に達していることがわかった。作品のスケール、美意識の洗練さに圧倒されたものだ。
名人芸とは、人が見ることによって感動、感激を生むもので、スポーツ、芸術、芸能の世界だけではなく、あらゆる分野で見ることができる。感性を磨くことによって、達成できる領域で、あらゆる作業につながるものである。科学、医学、料理、政治、商売、物創り、舞踊、教育など、我々の生活に近いところにも見られるものである。
3. 音楽の持つ特性
音楽を楽しむ為には、聞きとるための音感、弾く・歌う為の技量、合わせるための協調力が必要となる。その中で最も大切なのは音感である。聞き取る耳を持たないと、どんな美声の持ち主であろうと弾き手であろうが音楽を楽しむことはできない。音感は、パーフェクトピッチと呼ばれる絶対音を聞き取れる耳を持っている人が、極稀ながら存在する。音楽学校でもクラスに1人いるかいないかと言う希少価値の存在で、天才のカテゴリーに入る。ほとんどの人は、訓練による音の聞き分けで徐々に音階を習っていくことになる。
弾くための技量は天が与えた素質が基礎となり、天才は聞くと同時に、同じ音階を弾き反す能力を与えられている。普通の人々は、音楽を習うのに、真似事から始まる。この期間では聞く側にとってひやひやしながら間違えるのではないかと心配して同情心(シンパシー)がおこる。ところが、技術的な基礎が確立されると共鳴感(エンパシー)に変わるのである。共鳴感があってこそ、感性の発展へとつながっていくのである。
4. カラオケの発展
1970年代に入って、日本ではピアノバーが流行りだし、アメリカでも見られるようになった。シカゴでも日本歌曲が弾けるピアノバーが3軒ぐらいでき、楽しみが増えた。日本人は、小、中学校で楽譜を読むことを習っているので、文化として受け入れられる要素があったのだろうか、その進展は早く、カラオケに発展していく。我々のまわりのサラリーマン、おじさん、おばさんまでが、一流の歌手が顔負けするぐらいの歌唱力を見せるまでになった。カラオケは日本人の感性を引き上げる作用に大いに貢献している。カラオケ装置を完成させ、世界中の人々を音楽の世界に引き込んだ日本人の能力は、西洋音楽の基本となったグレゴリアン・チャント、バロック時代のオーケストラやパイプオルガンの進展、クラシック時代のフルオーケストラの発展と比較しても遜色がないくらいの貢献であると
思う。
5. シカゴ交響楽団との出会い
私はバレンボイムが常任指揮者時代の15年間のうち、合唱団員として6年従事し、そのうち4年間は正団員として参加していた。ほとんどの団員は、声帯の老化によるビブラートのコントロール、聴力の衰え、肺活量の低下などで、50歳台で引退を余儀なくされるが、私にとって60歳での再挑戦であった。低バリトンとして13倍の競争率での再出発であったが、合唱団員は中西部から集まってきていた。
合唱団員の練習は、一公演につき1回3時間の練習が5回、その内1回は指揮者と、1回はオーケストラリハーサル。わずかな練習時間内に与えられた曲を歌いこなせる必要があったので、即楽譜を読む能力を要求された。選択されるメンバーは、曲が必要とする声の質によって選ばれた。年齢的にはほとんどが社会人であったので、声の熟成度は高く完成度は抜群であった。バレンボイムの最初の10年間は普通の指揮者であったが、後半の5年間は熟成度が増して重厚性が加わり円熟期に達し、その名人芸はシカゴの音楽ファンを魅了し、感動、感激を与えてくれた。この時期に多くの客演指揮者達に巡り合うチャンスが与えられ、その中にはStravinsky、Zubin Mehta、Pierre Boulez、Claudio Abbado、Kurt Masul、Carlo Maria Giulini、 朝比奈隆等で各々名人芸に達している巨匠の元で貴重な体験をさせてもらった。このような熟練の指揮者が一同に介するのは、シカゴ交響楽団に対する尊敬の念がある故で、New York でも経験できないことである。
ラビニア・フェスティバル/グラントパーク・フェスティバル
野外劇場としては米国の最古の劇場であるラビニア・フェスティバルは、1906年にNew York 交響楽団の夏季用劇場として開設された。1926年に大恐慌の影響で一時閉鎖され、その後、1936年にシカゴ交響楽団の夏季劇場(6 –9月)として再開された。小沢征爾さんが指揮者として1964 年– 69年まで活躍されており、その時に際楽屋裏でお会いする機会があった。
プログラムはクラシック以外にも幅広く用いられ、ジャズ、オペラ、ブルース、フォーク、ロック、バレー、ドラマ、それに教育関連のプログラムなどがあり、著名なPerformer達が出演している。私もエッシェンバッハ指揮のもとで、年10回は出演していた。レストランのサービスもあり、家族や友人達とPicnicに行くことは最高の楽しみ方である。
グラントパーク・フェスティバルはシカゴダウンタウンのグラントパークで行われる夏季の野外劇場でほとんどのプログラムは無料である。プログラムはクラシック以外に色々なジャンルを提供していて、多くの観衆を集めている。