3つの海外校

中尾 敦さん 全日本空輸

3つの海外校

読者の皆様の中には海外生活の長い方やいろいろな国のご経験をもつ諸先輩方も多いかと思うが、私が海外で経験した3つの学校について、記憶を辿りながら書いてみた。

シンガポール日本人学校

商社マンの父の転勤に伴い私は1969年から5年間シンガポールに滞在した。シンガポールがマレーシアから独立したのが1965年であるから建国直後のことになる。当時のシンガポールは今では想像もつかないほど発展途上であった。かの有名なオーチャードロードは道沿いに低層ビルが並んでいる程度であったが、現在でも立ち並ぶ高層ビル群の中に存在する最上階に回転レストランを擁したハイアットホテルがその当時一番目立つ存在だったのは覚えている。スコールの中を裸足で走り回り、その辺の木に生っている名もない果実を食べ、すぐに集まってくるアリに奮闘する日常であった。海南チキンライスやチリクラブは子供の頃から体に染み付いていて、大人になってそれらの料理が日本にやってきた時にはとても懐かしかった。
現在のシンガポール日本人学校は2つも校舎があり世界最大級の規模だそうだが、私の時代はシンガポール軍の兵舎だったところを借りて運営されていたと聞いている。平屋の高床式の建物で床下の砂地にたくさんの蟻地獄が逆円錐状の罠を構えていて、巣の底にいる蟻地獄をつついて遊んでいた。校庭には時々コブラが出没して外出禁止令が出たりしたものである。結局この学校には2年半お世話になり日本に帰国したが、今になって思えばこの時の海外経験がその後の人生に大きく影響することになったと思う。

バーモント州ベニントンの現地校

父の転勤に伴い私は日本の小学校に転校した。季節は冬だったので暑い国から来た私は手足にいつも霜焼けができていた。当時学校には石炭ストーブがあって、ストーブ係という校内の石炭置き場までねこ車で石炭を取りに行きストーブにくべるという仕事が楽しかった。友達から日本語が変だとよく言われていたが、生まれが大阪なので関西弁のことを言われたのだろうと思う。(今は関西弁は話せない)もうひとつ、英語を話せるのかとよく聞かれた。私は日本人学校に行っていたから英語は話せないと説明するのだが、みんな残念がるものだから、外国から来たのに英語ができないのが子供ながらにコンプレックスになった。中学になると英語の授業があるが、友達の中には塾に通っている奴がいて、英語が自分より先を行っているのが気になってしょうがなかった。しかし授業が進むにつれ成績は友達を追い越すようになっていった。シンガポールで現地のイギリス系の幼稚園に通ったので、その時に自然に身についた英語が蘇ってきたのかもしれない。

高校3年生の時、交換留学生として渡米することを決意した。この時も英語に対するコンプレックスを払拭したい思いが後押しした。1984年夏、ユナイテッド航空で成田空港からシアトルを経由しシカゴで一泊した後、留学先のバーモント州ベニントンに渡った。私は会社に入ってシアトルにも駐在した経験があるが、この時は将来この2つの地に駐在することになるとは予想だにしなかった。

ところでバーモント州ってどこ?っていう方も少なくないのではないか。ニューヨーク州の東に接し、マサチューセッツ州の北に位置する小さな州で、自然以外何もないところである。(よくいえば風光明媚である)カレーが有名なのかとよく聞かれるが、もちろんそんなはずはない。バーモントカレーの名前の由来はメーカーのウェブサイトによるとリンゴ酢とはちみつを混ぜて飲む「バーモント療法」に由来するとあるが、私はそれを現地で見たことも聞いたこともなかった。名産品はメープルシロップである。バーモント州でよく知られているのが大統領選で名前が出てくる州選出議員のバーニー・サンダース氏である。ちなみにサンダース氏はシカゴ大学の卒業生だそうだ。

州南西の片田舎にあるベニントンという町であるが、驚いたのは街に信号機が1つしかなかったことと、ほとんど白人しかいなかったこと。黒人もアジア人もほぼゼロ、である。(実際には学校にハワイ系の女子と黒人の男子が1人だけいた)そんな町に見たこともないアジア人がやってきたものだから、噂でもちきりになったようだ。何と地元新聞が取材にきて全面記事になったくらいである!

現地校にはシニア(高3)として入学した。日本の高校と違うなぁと感じたのは、予め時間割が決められているのはなく、個人の能力や希望に応じて授業を選択する大学のようなシステムになっていたこと。これだと楽をしようとする人もいるかもしれないがそれも本人の自由だし、逆に優秀な人はどんどん上に行ける。実際、日本の教育を受けた私は数学が現地よりも進んでいて、難しい授業を取ることになったが、自分より1個下に超絶頭のいい奴がいて、高校の授業じゃ簡単すぎると言っていた。日本の高校では中の上か上の下くらいの成績だった私であるが、ある数学コンテストの参加メンバーに選出され、結果は地区2位であったが、1位は年下の彼であった。

その時の貢献もあってか私は交換留学生の身分で卒業証書をいただけることになり、地元の大学教授だったホストファーザーや学校の先生の勧めでアメリカの大学を受けてみることにした。当時、衝撃的だったスペースシャトルに魅せられていた私は幸運にもコロンビア大学の工学部の合格をいただいたのだが、当時1ドル240 円という円安で、学費と生活費合わせて年間約4千万円かかると聞き、辞退せざるを得なかった。

UCバークレー

その流れで日本の大学で理工学部を出てANAに就職したが、アメリカの大学に行きそびれた過去をまだ引きずっていて、チャンスがあれば再チャレンジしたいと思っていたところ、社内留学制度の話があって飛びついた。私に課せられたのは交通工学という分野の修士課程で、そのカリキュラムを有する大学を受験してUCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)の大学院に行くことになった。

入学してみて気づいたのは、日本の大学院と違い、殆どの学生が学部からではなく社会人経験を持っていること。職業も多岐にわたっており、銀行員だったり、教師だったり、デルタ航空のキャビン・アテンダントをやっていました、なんていう人もいた。

社会人を経験してから大学に行くと、自分の求める理想に対して足りないところ、弱いところがはっきりと見えたし、人生おそらく最後になるであろう学びのチャンスを無駄にしたくない気持ちからか、よく勉強したと思う。会社に費用面で面倒を見てもらっていて落第するわけにいかないという事情もあったが。

もうひとつは、かつてのバーモント州とは真逆の多様性である。クラスメイトは中国人、香港人、台湾人、カナダ人、インド人、フランス人、イラン人、ロシア人、キューバ人. . . よくぞここまで集まったなという感じだった。リベラルな校風で知られるUCバークレーの特徴なのかもしれないが、アメリカと政治的に敵対する国からも多数学生を受け入れているのは不思議であったが、学問は学問でありそれ以外のことは関係ないし、門戸を広げればその分だけ優秀な学生(自分は除く)が集まり、それだけ大学のレベルが向上するということなのだろう。(実際アメリカと政治的に敵対する国の学生はもれなく優秀であった)

そして決して裕福でない国から来ている苦学生達はどうやってあの高額な学費を払っているのか気になったが、翻って高校生の頃の自分にそれくらいの気概があったならと思ったりもした。

振り返ってみれば海外経験はほぼアメリカであったが一口にアメリカと言っても土地土地で環境も文化も異なっていてひとつのステレオタイプは存在しないし、日本から見るのと全然違うなぁと思わされるばかりであった。昨今日本人は留学はおろか海外に出たがらないという話をよく耳にする。スマホで居ながらにしてあらゆる情報が手に入るし、安全安心な日本で事足りるというこのようである。しかし、実際はネットに流れている情報はほんの一部でしかないし、正しくないこともある。むしろ海外で時間を過ごすことの方がよっぽど短時間に膨大な知見を得ることができると思う。日本人がもっともっと海外に出て(飛行機に乗っていただいて!)、クローバルに活躍することを切望してやまない。